戦前から戦後にかけて西洋絵画と日本洋画の一大コレクションを形成した石橋正二郎は比較的早い時期から美術館創設の意思を抱いていました。
1950年にグッドイヤー社との提携交渉のため渡米した際、正二郎の美術館構想は具体化します。各地の有名な美術館を訪問して、「コレクションを自分一人だけで愛蔵するよりも、多くの人に見せるため美術館を作り、文化の進歩に尽したい」と決意したのです。特に、都心にあって気軽に美術と親しめる美術館に感銘を受けたといいます。
その頃ちょうど、正二郎は東京の都心の京橋にブリヂストンビル建設を計画中でした。当時の建築基準法での高さ制限31mの中で9階建てのビルを作ることは我が国で初めてのことであったのに加えて、耐震構造、防火構造全てが行き届いており、照明、空調機器その他あらゆる内部構造についても、これによって建築基準法が新しく改正されたと言われています。
正二郎はビルの2階全てをブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館)として、1952年1月8日に開館しました。
当時の日本は終戦から7年足らずで、復興と占領のさなかにありました。人々は優れた芸術を渇望していましたが、東京には西洋近代絵画と日本近代洋画を展示する美術館が存在しませんでした。そうしたなか、都心において西洋絵画、日本洋画の名品を一般に公開したブリヂストン美術館は大きなインパクトを与えました。たとえば、画家で日本美術家連盟会長の安井曾太郎は正二郎宛の感謝状にこう記しています。「あなたの御厚志が、ひとり美術家のみでなく、真正の美術にうえている一般都民の心に如何に大きい慰めと糧とを与えているかは、日々美術館につどう人々の無言の姿のうちに、はっきりと見られるのであります」。また、作家の武者小路実篤は「今年になって僕達美術好きにとって嬉しいことは京橋にブリヂストン・ガレリーが出来たことだ。(中略)自分達が若い時から夢見ていた小美術館が現実として立派に出来上っているのだ」と当時の新聞に寄稿しています。
開館後、ブリヂストン美術館は石橋コレクションの常設展示や特別展示だけでなく、専門家・著名人による美術講座や、記録映画の制作、レコードコンサート、演奏会など、美術・芸術を基軸とする幅広い企画を展開しました。こうした活動は少しずつ内容を変えながらも、現在のアーティゾン美術館の活動に受け継がれています。